私は「私」 私という存在を理解する

生命の個性

私は「私」 私という存在を理解する

私たち人間は、幾代もの人生を輪廻転生し、生まれ変わってきています。
過去世の私は、今の私とは違う人生を生き、姿形はもちろん、性別や立場なども違っていたはずです。
もちろん過去世の記憶を覚えている人は、ほぼいないと思います。

それでも過去世の私は、紛れもなく「私」であり、
生きる時代も場所も違っても、変わらぬ普遍的な「私」という存在があるに違いありません。

現代の科学では、物質を構成する、幾つもの素粒子が発見されています。
素粒子には、大きく分類して、物質そのものを構成するフェルミ粒子と、物質化させる働きを助けるエネルギー的なものボース粒子があります。
素粒子の中でも一番馴染み深いのが「電子」です。電子はフェルミ粒子の仲間です。

さて素粒子には寿命があります。科学的にみた素粒子の寿命とは、粒子崩壊といって、他の素粒子に変わるまでの時間を意味しています。

電子の寿命は永遠。粒子として現れたり、波として消えたりを繰り返しながら、永遠に電子としての性質は変わらないということです。
一方、フェルミ粒子の仲間であるミュー粒子の寿命は、約50万分の1秒だといわれています。ものすごい短い寿命です。

このように同じ物質を構成する素粒子の中にも、瞬間ともいえる短命な素粒子もあれば、普遍ともいえる素粒子もあるということです。
ここに生命の謎を解く、ヒントが隠されているのかもしれません。

私たち人間にも寿命があり、生死のリズムがあると考えられますが、
普遍的ともいえる「私」の存在が確かにあるように思えます。

この「私」に備わった、私だけの役割、目的、使命・・・
それが今の人生に具体的に出てきた性質こそが「生命の個性」に他ありません。

例えば、今世の私でさえ、子供の頃の記憶など、ほぼ忘れてしまっています。
それでもなぜか、「こんなことがあったかもしれない」「これは知っている気がする」と腑に落ちることがあります。
記憶では確かに思い出せないまでも、心は思い出せたかのように。

過去世の記憶も同じです。思考上の記憶で思い出すことは、まず無いといってもいいでしょう。
それでも何かを感じ、心が「知っている」と感じることがあります。

そして今の自分自身を形作る、過去の私という「原因」を知ることで、
自分に対する認識が明確になることがあります。
過去のことなど、この程度わかればいいのだと思います。

過去を思い出しても、過去を変えることはできません。また変える必要もありません。
過去から続く、今の私をより知ることで、未来の自分を選んでいけばいいのです。

未来の私は、今の私が変えていくことができれば、素晴らしいことだと思いませんか?